あすなろをもっと知る

 

代表者あいさつ

関尾 英隆(せきお ひでたか)

兵庫県西宮市生まれ・神奈川県川崎市育ち

 

私の仕事は単に「家をつくる」ことではないと考えています。
そこに住まうご家族にとっての「幸せな暮らし」を提供することが仕事と考えています。そのためにも私の家づくりに関する探究は止むことはありません。日々の探求を通して、常に最高の水準での「住まい」を提供し、「住まい」における価値を最大限にふくらませることが私たちの使命だと感じています。

日々変わり続ける施工技術、材料・設備、法規などの家づくりに関する様々な情報を得、研鑽に努め、常に「自分の家ならどうする?」の考えのもとに、お客様の求めるニーズに合った最高品質の家づくりを続けています。

私たちの家づくりにかける思いと理念に共感していただいたお客様に、その時代の最適な材料と工法、設備を用いて、最高の技術者によってつくられた家をご提供します。

 

関尾英隆物語

 

大手設計事務所時代

建築学専攻の大学院を卒業し、就職先を探す際に「何がしたいのか?」を自問し、「せっかく設計の道に進むのであれば、交番のような小さな小さな建物から、都市開発のような大きなものまで設計してみたい」と思うようになり、どちらも実現できる場所ということで、設計事務所としては最大手の日建設計に就職しました。
入社早々の配属先は「晴海トリトンスクエア」の設計チームでした。40万㎡を超える巨大プロジェクトで、そのプロジェクトにて小さな交番から超高層ビルの設計に携わることになりました。その後は、東京駅前の「パシフィックセンチュリープレイス丸の内」などの最先端の超高層オフィスビルや六本木の「東京ミッドタウン」などの巨大プロジェクトの設計チームに参加しました。そこでは、フォーシーズンズホテルやリッツカールトンなどの五つ星のホテルの設計を担当しました。ある意味、設計業界の中では花形とも言える仕事で、やりがいもあり誇りを持って日々を過ごしていました。

傍らで、休みの日や夜の時間を使って、知人の住宅の設計の仕事も行っていました。
夜の12時過ぎまで事務所で仕事して、家に帰ってから夜中に数時間図面を描いて、週末は現場に通う、という超ハードな毎日ではありましたが、それはとても楽しい時間でした。
手掛けた住宅が出来上がった際に、お客様から頂く「ありがとう」の言葉がとてもうれしくて、また「こうしたほうがいいよ」などの叱咤激励もあり、お客様や職人さんとの生の心のやり取りがとても心地のよいものでした。また、現場で作業をした後の「お疲れ様」のビールがとても美味しかったことをとてもよく覚えています。
入社して10年を迎えようという頃、「このまま齢をとっていいのか?これが一生続ける仕事でよいのか?」と思うようになりました。知人の住宅を設計した際の現場で味わった、あの感動とビールの味が忘れられずにいました。
「そうだ、本当にやりたかったことは、自分の仕事を通じて笑顔になってくれる人を増やすこと。それは個人の住宅だったはず。あの感動を、あの美味しいビールをまた味わいたい。」と思うようになり、10年の節目で設計事務所を退社しました。

 

 

工務店修行時代

設計事務所を辞めたのはいいのですが、実は木造住宅のことをしっかりと理解している訳ではなく、仕事もありませんでした。
では「つくる側」からしっかりと学び直そうと思い、大学時代の先輩であり人生の師である方に相談して、木造住宅づくりを真面目に行っているという工務店であるという「沖工務店」を紹介いただきました。沖工務店では、現場監督、大工の補佐、営業、設計と木造住宅に関するあらゆる仕事に関わらせていただきました。
「まずは図面を描いてみて、現場で大工さんや職人さんに聞いてみて、また事務所に戻って、描き直す」を繰り返し、「家づくりの基本」をみっちりと学ぶことが出来ました。
改修工事やメンテナンス工事にも数多く経験することが出来、そこで「長く住み続けられている家の共通点」があることに気づきました。それは「そこに住まう人がその家を気に入っている(愛している)かどうか」でした。気に入っているからこそ、家に目をかけ、定期的にメンテナンスを施し、家族の変化に伴って、家もカスタマイズされ、長く使われていました。
また、奇をてらったデザインであったり、見た目だけを意識して設計された住宅は、雨漏りをしていたり、使いにくい部分が多かったりして、住まい手として家を持て余してしまっている例も多く見てきました。誰も「雨漏りしたり」「寒さを我慢したり」「使いにくい」家を望んで建てたりはしません。設計者のエゴでそのような家が建ってしまっていて、残念なことに住まう人に愛されていない家がたくさんありました。また、新建材と呼ばれるニセモノの建材で建てられた家は、数年でみすぼらしく見えてきていしまっていることにも気づきました。
その一方で、無垢の木や漆喰などの自然素材で建てれらた家は、経年変化で木肌が飴色に変わり、味わい深く、年数が経つほど「格好いい」家となっていました。材料の選定が家づくりをする上で大事であることも分かりました。
もうひとつ、大事なこと。それは「家をつくる大工や職人の腕の差」が大きいということ。大工と言っても、その技量の差は様々でした。丁寧で真摯な作業を行う大工は、お客さんからの信頼も厚く、仕事が絶えないものでした。基礎をつくる鳶さん、屋根や外壁を張る板金屋さん、漆喰の壁を塗る左官屋さん、水道設備屋さん、電気設備屋さん、ガス工事屋さん、植栽を仕上げる造園屋さん、などの職人さんも同じで、その考え方一つで仕事の内容もかなり違うことを知りました。
「いい家をつくるにはいい職人が必要」ということを確信した時でもありました。
いい家は「住まう家族に忠実で、適切な材料を用い、優れた職人の手でなければ為しえない」と知ることが出来ました。

 

 

個人設計事務所時代

沖工務店では、合計3年間修行させていただき、独立という形で「関尾英隆建築設計工房一級建築士事務所」を開設しました。独立といっても借りていた家の一室からのスタートです。なんでも自分で出来なければ当然仕事になりませんので、業務を外注することなく、構造計算や設備設計、現場設計監理などの設計に関わるすべて業務を自分で行っていました。おかげで設計の基本がみっちりと身についたと感じています。自分一人の設計事務所としては十分過ぎる仕事にも恵まれ、充実した時間を過ごしていました。
そんなときに沖工務店の沖社長の訃報が届きました。それは突然のことでした。
私は沖工務店に戻り、進行している物件が止まらないように沖社長の代わりを務めることになりました。
結果として、沖工務店の名をそのまま引き継ぐことは出来ませんでしたので、自分の設計事務所と沖工務店を統合する形で新しい会社を開設することになりました。
これが「あすなろ建築工房※」の創立です。

 

 

あすなろ建築工房設立初期時代

設計だけでなく「つくる側」である施工部門を持つことで、「家づくりの最初から最後まで、またその先の家守りまで携わることが出来るようになりたい」そんな気持ちもあっての工務店設立でした。
最後まで責任を持たなければならない立場となるからこそ、自信を持って薦めることが出来る材料と工法と職人での家づくりを目指しました。
しかし、地場があるわけでなく、知名度もまったくない設立したばかりの工務店に仕事があるわけでもなく、あすなろ建築工房の設立当時はそれはそれは苦労の連続でした。それまで居た大工さんやスタッフも離れ、仕事も見通しがつかない状況が続きました。
そんな中で、限られたスタッフで営業活動、現場管理を行わなければなりませんでした。私自身もこれまで「経営」を学んだことはなく、工務店経営は手探りとなり、最初の3年間は「工務店を設立なんてするんじゃなかった」なんてことを考えたりもしていました。それでも私を信じて会社に残ってくれた仲間のためにも、仕事をくださった設計事務所の先輩方のためにも、あすなろ建築工房の名前の「アスナロ」の意味である「明日なろう」の気持ちを心に刻み、頑張って参りました。

 

 

そして現在

家づくりを重ねるにつれ、単に「家をつくること」を目的つまりは仕事にしたくはないと考えるようになりました。お引き渡しの際に、心から喜んでくれているお客様を見ていて、喜んで下さっているのは「家が手に入ったから」ではなくて「楽しくて快適な暮らしを手に入れた」からだと気づきました。
「お客様が喜んで下さること」つまりは「そこに住まう人たちが安全で快適な暮らしを提供すること」を目的(仕事)としたいと思い、その思いに賛同してくれる仲間があすなろ建築工房には集まってくれています。
おかげさまで、私の考える家づくりに共感してくれる社員スタッフ、協力業者、お客様に恵まれ、年を重ねるにつれ、順調に着工数も増え、高品質の家づくりを行うことをここまで続けてくることが出来ました。
今のあすなろ建築工房があることは、私たちを応援し、支えて下さった皆様のおかげです。
心より厚く御礼申し上げます。

※番外編 あすなろ建築工房の名前の由来

井上靖の小説「あすなろ物語」や大人気ドラマ「あすなろ白書」で、名前だけは知っている「あすなろ」ですが、漢字で書くと「翌檜(桧)」や「明日桧」と書きます。別名をヒバ(檜(桧)葉)とも言います。「あすなろ」の木は、見た目には、桧とほとんど一緒です。プロでも見た目だけでは区別がなかなかつきません。しかし幹を切ってみると、桧の薄ピンク色の優しい木肌とよく知られた芳香とは違い、「あすなろ」の木肌は黄色く、香りも少々違っています。けれど、防虫性能的にも耐水性能的にも構造耐久的にも桧に劣るものではなく、その実力は桧以上とも言われています。見た目は似ているけど、人気のある桧と違うという自分を省みて、「明日は桧になろう、明日は桧になろう」と日々努力している姿が「あすなろ」という名前には込められています。
会社設立時、「新しく作る会社の名前をどうするか」を考える際に最初に思ったことは、「永続企業としてふさわしい名前にしたい」ということでした。「家を建てる」ということは、「建てた家が建っている限りの責任を負うもの」と考えています。家はきちんとメンテナンスをしていれば、50年、60年、いや100年だって建ち続けます。その責任を全うするには「工務店は永続企業でなければならない」と考えました。設立時には、周りの知人からは「関尾工務店」や「関尾建設」なんて名前の候補も挙がりましたが、沖工務店の名前を残そうとしていた時に、「個人名の付いた企業は第三者が継ぎにくい」ということに気づいていたこともあり、「会社名に個人名は付けたくない」と思っていました。「個人名でなく皆に覚えてもらえるいい会社の名前はないか?」と日々考えていた頃、故沖社長が好きであったという木曽の山奥にある山荘に連れて行ってもらう機会がありました。そこで焚火をしながら、親しい友人と語りあっていたところ「木曽の五木(ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ・サワラ」の話になり、「アスナロって名前の由来がいいよね!」って話になりました。私の個人の設計事務所の名が「関尾英隆建築設計工房一級建築士事務所」だったこともあり、モノつくりの場である「工房」の名前を残し、「あすなろ建築工房」の名前が生まれました。

【代表者経歴】

  • 1969年(昭和44年) 兵庫県西宮市生まれ
  • 1988年(昭和63年) 神奈川県立多摩高等学校 卒業
  • 1993年(平成 5年) 東京工業大学 工学部 建築学科 卒業
  • 1995年(平成 7年) 東京工業大学 大学院 理工学研究科 建築学専攻 卒業
  • 1995年(平成 7年) 株式会社日建設計 入社
  • 2000年(平成12年) 米国コロンビア大学サマープログラム参加(CJSSEP)
  • 2005年(平成17年) 株式会社日建設計 退社
  • 2005年(平成17年) 有限会社沖工務店 入社
  • 2008年(平成20年) 有限会社沖工務店 退社
  • 2008年(平成20年) 関尾英隆建築設計工房一級建築士事務所 開設
  • 2009年(平成21年) 有限会社沖工務店 取締役社長
  • 2009年(平成21年) 株式会社あすなろ建築工房 設立